鑑真大和上のお寺

今回は、教科書にも出てくる鑑真(がんじん)によって創建された唐招提寺(とうしょうだいじ)をご紹介していこうと思います。

教科書にも載っていて多くの方が知っている鑑真と唐招提寺ですが、あまり訪れることがありません。私も数年に一度行く程度で、世間には行ったことのない人も多数いらっしゃることと思います。そんな唐招提寺と鑑真のお話をしていこうと思います。

まず、鑑真とはどういう人物なのか・・・

教科書などで登場する鑑真は、奈良時代に日本で活躍した僧侶として取り上げられます。元々、鑑真は中国の揚州(ようしゅう)というところで688年に誕生します。そして、14歳の時、揚州にある大雲寺(だいうんじ)で出家することとなります。21歳の時、長安の実際寺(じっさいじ)の戒壇で弘景律師から授戒(守るべき規範や規律、戒律を授かること)を受けます。その後、揚州の大明寺(たいめいじ)にて広く戒律を講義して、長安・洛陽(らくよう)に並ぶ者がいない律匠(りっしょう)とも称えられたほどの人物でした。742年に日本から熱心な招きがあって、それに応じて日本へ渡ることを決意することとなります。742年には鑑真は54歳となっていました。その当時は航海自体がとても難しい時代であった上に54歳での航海となるとその難しさは増します。やはり航海は困難を極め、五度の失敗、さらには盲目のみとなってしまいました。それでも鑑真の意思は堅いもので、753年12月に六度目の航海にしてついに日本に辿り着きました。最初に日本からの招きがあってから11年が経過して、鑑真も65歳になっていました。そんな鑑真は日本に渡ってからも精力的に活動を行っていきます。754年には東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、400人余りの僧侶や俗世間の人に戒を授けました。これは、日本で初の正式授戒となりました。その後758年にタイトルにもあるように大和上(だいわじょう=大和尚)の称号を得て、それに合わせて新田部親王(にたべしんのう)の旧宅地も賜わりました。759年その場所に、戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。それが唐招提寺の始まりとされているそうです。これだけでも、日本仏教において、いかに重要な人物であったかがわかるかと思います。中国においても日本においても素晴らしい僧侶であったことに間違いはないでしょう。

次は、唐招提寺にある建物をいくつかご紹介しましょう。

まずは、先ほどの写真にも写っていた金堂。

金堂に入ると姿を見せてくれるのが三体の巨大な仏像たち。どのぐらい大きいのかというと、中央に立つ本尊(ほんぞん)、盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)は3mを超え、光背(仏像の背後にあるもの)の高さは5.15mにもなります。その本尊の右にある薬師如来立像(やくしにょらいりゅうぞう)は3.36m、左にある千手観音立像(せんじゅかんのんりゅうぞう)は5.36mにもなり、高さを聞いただけでも大きいですが、実際に見ると仏像の威厳と相まってより大きく見えます。金堂は2000年から2009年まで長きにわたり平成の大修理が行われていました。この時分かったことは、江戸時代と明治時代の二回大修理が行われていたことと、それまで大修理が行われていなかったことです。そう考えると、759年に唐招提寺が創建されて以降約900年間修理なしに立ち続けていたそうです。

次は、金堂の奥にある講堂です。

講堂は鑑真が唐招提寺を開創するにあたり、平城宮の東朝集殿(ちょうしゅうでん)を朝廷から賜わって今の場所に移築したもので、今現存する平城宮の唯一の遺構となっていて文化的価値も非常に高い建物になっています。

そんな歴史的文化的価値の高い唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部としてユネスコの世界文化遺産にも登録されています。

唐招提寺ならではの雰囲気を現地に行って感じ取ってほしいと思います。

旅と写真をともに~Travel pictures~

近畿圏を中心とした旅の模様を写真と共にご紹介していきます。 その他、趣味の絵もともにお送りしていきます。

0コメント

  • 1000 / 1000