今回ご紹介するのは、日本で一番のお城として認められている姫路城です。
姫路城と言えば、見た目の美しさから白鷺城とも呼ばれるぐらいとにかく白いお城ですよね。2009年から平成の大修理が始まりしばらくの間その姿を見ることができなかったのですが、2015年に造られた当時そのままの美しい姿を見ることができるようになりました。
この写真から見てわかるようにほんとに白いです。どれほど白いか例えるとするなら、雲があればそれと同化してしまうぐらいの白さです。
この美しさや文化的価値から1993年にはユネスコの世界文化遺産にも登録されました。
そんな姫路城はどのようにして今の姿になったのか・・・
元々は赤松貞範(あかまつさだのり)という人物が、今姫路城の建つ場所にあった標高50mの姫山に築城したのが始まりだとされています。
織田信長(おだのぶなが)が中国征伐の際に羽柴秀吉(はしばひでよし)をそのお城へ送り込みます。その当時の城主は黒田官兵衛(くろだかんべえ)でした。その後、羽柴秀吉は中国地方平定の本拠地としてこの地を選び、1581年に今の姫路城になる前の姿のお城を築き上げました。
この時、元々お城のあった姫山とその西にある鷺山を場内に一緒に取り込み、姫山の「姫」鷺山の「鷺」の字の中にある「路」を合わせて「姫路」と命名したとされています。(諸説あり)
関ケ原の戦いの後、池田輝政(いけだてるまさ)が姫路に入り羽柴秀吉が築いた姫路城を取り壊し1609年に今の姿の姫路城を築きました。
では、なぜこれほどまでに白の美しいお城にする必要があったのか・・・
元々お城は戦の拠点ともなる場所、美しさよりも戦いに向いたお城が多く、色も黒が基本でした。しかし、池田輝政が今の姫路城を築城したのが1609年この年になれば戦の数もグッと減り徳川の江戸時代へと移り変わっていました。この時代から戦向けのお城よりも、権力の象徴の一つとして莫大な人数とお金をかけて造られるお城が増えていきました。姫路城もそんなお城の一つで池田輝政は「美による威嚇」として姫路城を築いたため、これほどまでに白で美しいお城を建てるに至ったと言われています。こちらも諸説あるそうなのですが、有力なものの一つです。
姫路城の秀吉時代と輝政時代の二つの伝説をここでご紹介します。
まずは秀吉時代の伝説・・・・・・
城内の北腰曲輪あたりに、姥が石(うばがいし)という石があります。秀吉が姫路城を築城していた当時、石は貴重なもので石垣を造るための石がなかなか集まらなかったそうです。中々石が集まらず苦労していることを聞いた城下でお餅を売っていた老婆が、役に立てばということで、古くなった石臼を差し出したそうです。これに秀吉は大喜びして今現在その石がある場所に使いました。これが評判となり、人々が挙って石を寄進して、工事が順調に進んだと言います。いつの時代も人情を感じる話があるんだと感じますね。
次に、輝政時代の伝説です・・・
この時代の姫路城建設にあたった大工の棟梁で、桜井源兵衛(さくらいげんべえ)と言う人がいました。彼は姫路城を丹精込めて造り上げてきたのですが、天守閣が東南方向に少し傾いているように感じてたまらなかったそうです。そこで、自分の妻を連れ天守閣に登ったところ、妻にも少し傾いていると指摘されたそうです。そんな源兵衛のプライドもズタボロで、ノミをくわえて天守閣から飛び降りたと言います。実際に姫路城が解体修理されたときに東南方向に傾いていたことが確認されたそうですが、本当の理由は源兵衛の寸法ミスなどではなく、単純に東と西の石垣が沈んでいたためだったそうです。いかなる理由でもプライドは死を選んでいたかもしれません。
この様に伝説も多く存在します。一つ二つ知っていると現地でも楽しく見て回ることができるかもしれません。
ここで私が姫路城でこの場所を見てほしいというところを一つご紹介します。
この場所です。この抜け穴みたいな場所は「るの門」と言う抜け道の一つです。正規の通路からは少し外れた場所にあり、目につきにくいそうで、見つけにくくなっています。この門は天守への近道ともなっており、このような一種の抜け道は姫路城特有のものだそうです。正規の通路から見つけにくいことを自分の目で確かめてみて下さい。
今回は姫路城についてご紹介していきました。このような豆知識を引っ提げて、美的完成度が日本の木造建築の最高の位置に当たる姫路城を訪ねてみて下さい。
今では城内で少しでも楽しめるようにと「姫路城大発見アプリ」と言うものもあり、ARやCGを活用した展示や解説をしてくれます。是非こちらのアプリもダウンロードしてから姫路城内へ入ってみて下さい。
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